2016年(平成28年)の活動記録

 

12月3日(土)  ふるさと散歩緒川北50名の参加者

 今年最後となるふるさと散歩緒川北は、小春日和のお天気に恵まれました。そのうえ50名の参加をいただき盛大に開催することができました。5グループに分かれて国指定の入海貝塚や5カ所のお寺さんをメインに回りました。普段はとても歩くことのないせこ道を通り、町の家並みを見ながらの散策を楽しみました。8番札所の伝宗院では、地元の100歳になるおばあちゃんと一緒にお参りをしました。きっと御利益を授かることと思います。

 善導寺入り口では「おじょう坂」の名前の由来について説明しました。以前は道沿いに十王堂があり、その十王堂の坂ということで「十王堂坂」が早口で言うと「おじょう坂」になったと言います。

 その十王堂は左写真の奥に新築移転したために、昔と違う風景になりました。

 東浦唯一の日蓮宗のお寺が越境寺です。「えっきょう寺」と書いて「おっきょう寺」といいます。緒川城と水野信元に関わりの深いお寺で、信元の朱印状、慶長法難の軸があります。さらに、お寺の裏には「キリシタン灯籠」があります。尾張藩では寛文年間(1660年代)にキリシタン弾圧があり、そのころ密かに安置されたと言います。

 東光寺は水野貞守が乾坤院を建てるときに、助力した逆翁宗順がいたお寺ということです。これまで「サッカー和尚」として知られていました。このお寺で意外なことは、清水次郎長の子分で、緒川勝五郎の墓があります。あの清水次郎長との関わりがこの地にあることが驚きです。

 入海神社の境内には国指定史跡「入海貝塚」があります。神社・貝塚ともに「いりみ」と呼びますが、地元では「にゅうかいさん」と親しみを込めて呼びます。

 貝塚は存在自体が地味なもので、見てもぱっとしません。でも、ここから出土した土器は「縄文早期の標準土器」として知られています。

 

 

 

11月28日(月)  「ひがしうらセカンドカレッジ」に協力

 ボランティアセンター企画の「ぶらり途中下車武豊線」に協力して、村木砦跡、半田運河周辺の案内をしました。この企画は定年退職後の過ごし方の一つとして、自分の足で歩むセカンドライフ「体と心」のわくわくライフが売りです。10名の方を武豊線を利用して東浦と半田の両方を案内する、初めての企画です。

①緒川駅のホームで街の特徴について説明しました。ホームからは緒川の街全体を見渡すことができます。

 武豊線に乗って尾張森岡駅まで移動します。ここからは線路脇の田んぼの道を歩き、昔の砦跡をぐるりと一回りしました。武豊線と国道が砦跡を貫き、その面影はなくなりました。今は八剣神社の場所が、砦跡と説明しています。

②今川軍が砦を築いたことで、水野信元は織田信長に助けを求めます。1554年信長は初めて鉄砲を使い、今川軍を打ち負かします。この勝利により、信長は織田家における信頼を勝ち得て尾張統一を成し遂げます。

 その6年後に桶狭間にて今川義元を討ち取って、着々と地盤を固めております。このことからも、信長の天下布武は村木砦の戦いから始まったといえます。

 そのあと半田へ移動します、JR半田駅では武豊線の歴史に触れてから、半田運河の周辺を巡りました。

③現役最古の跨線橋...明治43年の文字が読み取れる跨線橋と、レンガ造りの油保管庫。亀崎駅舎はJR最古の駅舎であり、この武豊線は鉄道博物館ともいえます。

④半田運河と仲埜半六邸...ランチのあと半田運河を歩き、仲埜半六邸を見学しました。運河沿いの黒い板塀の建物が続く様は、とても美しいです。でも、ゆっくりするには休憩するカフェとかベンチは見当たりません。そのためか観光客は見当たりませんでした。

 

 

11月20日(日)  豊明のみなさんを案内

 小春日よりのもと 生き生きライフとよあけ会を案内

 

 

 

 1120()温かく穏やかな小春日和の中、生き生きライフとよあけ会を案内しました。コースは乾坤院・三代の墓・緒川城跡・地蔵院からコミセンに行き、そこから移動して村木砦跡を案内しました。前回の半田のボランティアの会の案内のノウハウを生かして、半日無駄のない、無理のない、見るところがふんだんにあるコースであることや、天候に恵まれたことも幸いして、豊明の方々に喜んでいただけました。

 ガイドの説明のあと、それに対して質問をいっぱいされ、納得されたようすで良かったです。一番の良かったことは、参加者が於大の方や村木砦に興味をもってくれたことです。一方通行にならず対話ができましたし、質問に答えるガイドもそれぞれ資料を示してきちんと応じることができました。また、移動のバス内も一緒で仲良しになれたことなども良かった点です。

 

 それと、計画を立てる段階から山本会長と、とよあけの会とメールでのやりとりができていて、懇切丁寧な提案と対応に、くれぐれもよろしくと感謝の言葉をいただきました。

 

 

11月19日(土)  ふるさと散歩生路

     酒蔵見学と再開発した機屋跡を巡る

 ふるさと散歩生路に「おだいちゃん」がかけつけてくれました。あいにくの空模様でしたが、おだいちゃんが来てくれたおかげでみんなの気持ちが和らぎました。24名の申し込みがありましたが、参加者は20名にとどまり、ちょっとばかり残念でした。

 しかし、伊久路神社ではちょうど宮司が子供の祈祷があると言うことで、正装して拝殿におられ、一部のグループは説明をしていただきました。(下の写真)

 さらに、今は常照寺が管理するようになった観音寺では、若い住職がおられて、こちらでもお堂内の絵馬などについて説明をしてくれました。それによると、絵馬は三十三観音のお参りをした後に奉納されたものという。当時は誰もがお参りに行けるわけではないので、講をつくり代表者が参拝したのです。

 10時40分頃に原田酒造さんに到着し、中を案内してもらいました。ここの酒蔵での年間生産量は、一升瓶にして30.000本位という。「生道井」と「若水」が主力製品で、お米は県内産が多いものの、自然災害なども考慮して新潟やその他の県の米も使うそうです。

肝心のお水は工場近くの井戸からくみ上げているとのこと。

 このあと機屋跡の説明をしながら、予定の時間にコミセンに帰りました。

 

上段左:伊久路神社では宮司の説明を受ける。他の3枚は案内する「ふるさとガイド」

 

 

11月12日~13日(土・日) 38回産業まつりに出展

ふるさとクイズに610名参加、初めてのポスターセッションも

 

 第38回産業まつりが「みつけよう きずこう 新たなブランド」というキャッチフレーズの元に開催されました。二日間とも晴天に恵まれまれ多くの人で賑わいました。ふるさとガイド協会は今年も「東浦ふるさとクイズ」を行い、多くの皆さんが東浦の歴史や文化についての問題にチャレンジしました。けっこう難しい問題もありましたが、これまで気づかなかった東浦の素晴らしさを知る機会となったに違いありません。子供たち同士での参加、親子でそして夫婦で参加してくださいました。中にはお隣の知多市・東海市からきた4人の若者もいました、聞けば久しぶりに会う場所をこの会場にしてくれたそうです。彼女のいない4人組かなと冷やかしましたが、この会場に来てくれたことに感謝です。

 ふるさとクイズには二日間で610名が参加してくれました。そして、初めての試みであったポスターセッションは机上のプランからいきなりのトライとなりましたが、まずまずの結果となりました。次からはさらに上手な運営に心がけたいと思います。

写真説明 上段:会場入り口        式典で挨拶する神谷町長

     下段:ふるさとクイズの会場   森岡のポスターセッション

 

 

11月2日(水)  映画制作のワークショップへ参加

 東浦町制70周年記念の映画づくりが進められています。市民映画制作のワークショップという形で行われます。ワークショップの代表は「東浦アートプロジェクト」村松さんです。司会と進行は映像作家の水谷イズル氏です。

 

112()の夜、ワークショップが開催されました。是非とも、東浦ふるさとガイド協会の意見を聞きたいとのことで、7名のふるさとガイドが参加して、6地区の映画にふさわしい、魅力ある素材や話題を説明しました。

  ワークショップは体験型の講座で、だれでも参加でき、自らどんな映画にするかを企画して、映画の素材を自ら掘り出して収集し、構成し作成していく新しい映画製作の試みです。

 水谷イズル氏は、名古屋テレビなどで映像製作を20年間つとめ、多くの名作を残された方です。独立後は、いろいろな自治体や地域の要請を受けて、地域の現実をしっかり見つめ、その未来を展望する、希望にあふれた映像のプロデュースをされています。

  ワークショップの参加者は若い人たちがほとんどで、映画作りに意欲満々でした。大切なことは、ワークショップの参加者が机上の論ではなく、実際に東浦を自分の足で歩き映画作りをすることです。自分の目で見て知った東浦をもとに、自分で考えた東浦の未来を映画に提唱できることを望んでいます。そのためには、ワークショップの参加者全員が、ふるさと散歩に参加されることを期待します。なぜなら、現代の各地域の東浦の姿を見つめることができるからです。

 ・・・・これが参加した私たちガイドの意見でした。

 

<記録>

町制70周年を記念する市民映画制作のワークショップの会

日程:11月2日(水)19時~21時  

場所:東浦町勤労福祉会館会議室D

内容:映画の素材になるような歴史的な話や場所

     各地区のまとめの資料を用意した。

 

東浦ふるさとガイド協会の出席者 7名

     山本、酒井、市野、鈴木、浪崎、石原、間瀬

 

10月28日(金)   知多の文化財保護委員の方々を案内

 

東浦の歴史新名所は「郷蔵と越境寺の切支丹灯篭」

 

  1028() 文化財保護審議会の知多の協議会が東浦町で開催されました。午後、雨の中、60名の文化財保護委員の方々は緒川地区の文化財を見て回られました。ふるさとガイド協会は一緒にまわり、見学のお手伝いをしました。特に越境寺では村瀬さんの案内は目を引く素晴らしいものでした。

 東浦の歴史、史跡は、於大の方や水野氏や村木砦そして入海貝塚などが有名ですが、それ以外に知多半島で東浦にしかない新しい名所があることが、知多の文化財保護委員に広く知られるようになりました。言い換えれば東浦の歴史新名所誕生です。

 

1「知多で、東浦にしか残っていない郷蔵」

 

 午前中の石原さんの記念講演と、午後の見学で、緖川の郷蔵の存在意義が高まりました。江戸時代にはどこの村にもあり、村の絵図にもきちんと書かれ代官所への届け出もされた建物。あって当然の建物が明治に入り次々と取り壊されなくなってしまいました。気が付けば愛知県全体で45戸、知多ではここだけという有様です。継承することがむずかしいことを改めて知ることになります。何にも取り柄のない蔵だから簡単に壊されたに違いありません。

 かやぶきの屋根や、村に必ずあった阿弥陀堂や十王堂も同じことが言えます。これを機会に江戸時代のままに復元修復を実施して、文化財の指定し保護をする必要があります。貴重な郷蔵を守っていきたいものです。

 

下の写真  郷蔵            越境寺のキリシタン灯籠

 

2 「切支丹遺跡は越境寺だけ」 

 

知多の文化財保護審議会の方々は、越境寺での村瀬さんの説明に聴き入っていました。説明を聞いた反応は「ビックリした。まさか、こんな寺にあるとは!」でした。切支丹灯篭見学では、どこが十字架なのかを、自分の目で確かめようと必死でした。審議会の委員の方々から、このことが口コミで広がり訪問者が増えることを期待したいものです。

 

3 「文化財の保護とは?」

 

 明治26年に日高家が建立した阿育王塔ですが、2年前に移設したときに、塔の下から大量のお経の文字を書いた石が出てきました。その石は埋め戻さずに、地表にむき出しのまま放置されています。この日も雨に打たれて、石に書かれた文字はくっきりと浮かび上がっていました。

 しかし、このままだと石の経文字の墨は薄れて消えてしまうと、文化財保護委員の方々は嘆いておられました。場所を移したとしても、もとの状態のまま保存をしなければなりません。難しい文化財の保護を考える一日となりました。

 

10月23日(日) ふるさと散歩藤江

嫁入り舟に応援エールを送る

応援のエールをおくる           舟に乗り込む花嫁さん

 

 今年も藤江のふるさと散歩は、対岸の「吉浜 渡し場祭り」に合わせて開催しました。恒例となった花嫁舟に応援のエールを送ろうと21名の参加者と、ガイド15名が参加しました。加えて海岸には5.6名の方が駆けつけてくださいました。40数名で舟に乗り込む和服と洋装の花嫁さんに向かって旗を振り、お祝いのエールを送りました。

 こうした皆さんの好意(行為)に対して、渡し場祭りを主宰する「かもめ会」より昔懐かしい「嫁菓子」が配られました。これにはみなさん大感激で、「今もこうしたことが行われているのか」とか「私の時は○○だった」などと会話が弾んでいました。かもめ会のみなさんありがとう!! かもめ会の渡し場祭りに応援のエールを送るとともに、私たち東浦においても「藤江の渡し」を語り伝えていきましょう。

 

10月15日(土) 西部中学校カルチャー講座

「緖川新田の成立は新しいが、 古い歴史に支えられた重みがある地域!」 中学生17名を案内

 

1015() 午前中、西部中学校カルチャー講座が実施され、生徒ら19名を案内しました。今回はコースを精選して、尾張藩が海防のために作った烽火台跡と高根山そして、水争い和解のため作られた明治池の見学でした。

 

総距離3キロのコースと適切な距離で、その分、ゆとりがあり、充実した説明に生徒は聴き入っていました。

 

 

1 「古い歴史に支えられた重みがある地域だ。」

 

江戸時代末期、標高83mの高根山に尾張藩の烽火台が置かれたことや、平安から鎌倉時代に焼かれた八巻古窯群のことや、江戸時代の三山(白山、立山、富士山)をのぼり修行をした祖先を知り、古い歴史に支えられた地域であることを生徒達は再認識したようです。

 

高根の森から北へ向かっての明治池の道は、「近所に住んでいながら、初めて歩く。」と生徒は口々に話し、新鮮な地元の風景に感動したと言います。そして、明治池を巡る300年間の水争いに驚いていました。地元、地域を見つめ直すひとときとなったようです。

 

狼煙台跡

 

 
 

 


明治池

 

 

2 「高根の森が危ない。」 

 

 この計画を立てて引率をしてくれた間瀬さんの説明で驚きました。「危ない。」は危険であると言う意味ではありません。5ヘクタールを超える広大な森から、樹木がなくなろうとしています。それは ナラ枯れが原因です。ナラ類やシイ・カシ類が軒並み枯れようとしています。すぐにでも、対策をとる必要があります。ここまで、深刻な状態とは思いませんでした。「高根の森を守ろう。」のキャンペーンを繰り広げようではありませんか。

 

 

10月1日(土) ふるさと散歩石浜

子新田・明徳寺川を歩き300年続いた水争いをしのぶ

コースは上段写真を右に進み、それから下段を右へ回りました。

 

 ①増幅寺では西国巡礼で奉納された絵馬を見せていただきました、また12月11日には秋葉山の火渡りの行事が行われます。この近辺ではここ増幅寺で3年に一度行われるのみだそうです。②帝塚は南朝の身分の高い人のお墓と伝えられています。③藪下地蔵は東浦街道の分岐にあり、「みぎなごやみち ひだりよこすかみち」と道案内の地蔵さんです

④稲荷神社は石浜の歴史が詰まった場所です⑤踏切の横に子新田の説明板⑥子新田・浜新田・成実新田などの碑が集められています⑦明徳寺川に二つあるラバーダムの一つ⑧明徳寺川堤防で見つけたヒガンバナ

 29名の参加を得て以上のコースを回りました。石浜の新田開発がとびぬけて多かったのは明徳寺川の水を存分に利用できたからで、それはここ石浜の地を領した長野数馬の力によるところが大きかったのです。

 

9月11日(日) ウエルネスバレーフェスタに参加

 あいち健康の森公園において5回目となるフェスティバルが開催されました。形の上では大府市と東浦町の商工会が中心となり、実行委員会をつくり運営されていますが、実態としては明らかに大府市が中心となって企画運営されています。ちょっとばかり寂しい感じがします、でも、手作り鎧の会のみなさんのがんばりが、東浦の活動を一手に引き受けているようで、とても頼もしく映りました。

 ふるさとガイドは村木神社から会場までを武者姿の子供たちと一緒に歩きました。そして、石ケ瀬の戦いを模して子供たちの水鉄砲による競技会が行われましたが、石ケ瀬の戦いについて市野さんがわかりゆすく説明しました。本来なら大府のガイドさんが話をするところですが、一歩ゆずって東浦のガイドにお鉢をまわしたところは心憎いばかりです。

今後も隣の大府ふるさとガイドさんと、連携を重ねさらに発展を目指したいものです。

 

写真説明

上段  村木神社を出発          村木神社にお参り

下段  式典の様子            石ケ瀬の戦いを説明

9月5日(月) A-1サイズの於大ひめだより発行

 9月の定例会において秋のふるさと散歩を下記のように決めました。

10月1日.......ふるさと散歩石浜

10月23日....ふるさと散歩藤江

11月19日....ふるさと散歩生路

12月3日.......ふるさと散歩緒川北

 今回からお知らせの「於大ひめだより」をA-1サイズとして、文化センター、役場に掲示しました。役場は2階に上がる階段横にあって少し見にくいかもしれません。この秋   文化センター掲示板              もふるさと散歩へ是非お出かけください。

 

8月19日(金) 石浜のお年寄りにお話し

 上の写真は石浜中集会所で、楽々サロンでの一コマです。19日の14時40分から45分かけて、①織田信長が東浦町森岡の村木砦の戦で初めて鉄砲を使って、今川軍を破ったこと ②仏教の宗派によるお念仏 ③於大さん についてお話ししました。地元の歴史についてはみなさんもそれなりに知っていましたが、詳しい説明に納得していました。また、お念仏については質問もあり、ユーモアある回答に納得していました。

 今回は17名の方が参加してくれましたが、男性は1名のみでした、少し寂しいです。女性よりも男性には、仕事を離れた今こそ地域の活動などにもっともっと足を運んで、多くの人とふれあうことで余生を生き生きとしたものにしてほしいです。

6月16日(木) 二つの小学校の学習支援

 今回は石浜と森岡の二つの小学校の学習をお手伝いしました。

★片葩小では①稲荷神社②明徳寺川③石浜駅の三つのグループに分かれて、現地に赴きお話ししました。

★森岡小では①寺・神社②村木砦③お地蔵さんの三つのグループに分かれて、現地に赴きお話ししました。

 森岡小では、お天気が気になる空模様でしてので先に現地を回りました。

2枚の写真はいずれも森岡小の様子です。下の写真は村木神社で、三禅定の碑について説明している様子です。

 これだけの碑が集まっているのは日本一です、の説明にみんなびっくりしていました。また、ぶいぶいばあの墓では「いつからあったのか」、極楽寺の大楠では「目通り」の高さで幹回りを測ることなどに関心を示しました。子供たちが森岡の歴史をより理解して、家族に報告し話題にしてほしいものです。

 

6月7日(火)・14日・21日・28日

 

     受講生に大きな感動を残したふるさと講座

 

 これまでは一桁の参加者であったが、今年は14名の参加者を迎えて開催しました。ふるさと東浦の歴史や文化を広く知ってもらおうと企画、今では恒例の講座となりました。左の写真は開講のあいさつをする山本会長。

今回の講座

①6月7日-----石浜・緒川新田について

②6月14日---森岡について(村木砦跡での現地研修)

 

③6月21日---緒川について(乾坤院・緒川城跡での現地研修)

④6月28日---藤江・生路について

  受講者からは大変分かりやすいプレゼンだったとか、郷土愛に満ちた展開で大変良いなどのお褒めの言葉をいただいた講座もありました。感想文には『知れば知るほど歴史のある町であることが分かった。この町に誇りをもって生きたい。』の言葉がありました。この講座の成功を示す言葉としてしっかりと覚えておきたいと思います。 

 

下の写真説明

上の段...緒川新田の講義    緒川の講義

中の段...緒川城跡の現地研修  藤江の講義

下の段...生路の講義      石浜の講義

 

『人口減に転じた東浦の人口』

 

東浦はさびれていくのか?

 

 住宅が広がり、人口が増加する石浜

 

 

 

「住宅が広がり、人口が増加する石浜、4人にひとりが石浜」

 

石浜地区の一番の特色を、このような内容で表しました。石浜で丘陵地が

 

次々に住宅地に変貌する姿をテキストやパワーポイントで示しました。4年

 

前の記述が正しいかどうか検証の意味も含めて、東浦の人口について考察を

 

してみました。石浜の記述は正しいようです。ところが、東浦全体の人口の

 

問題点が浮かび上がってきました。それは、人口増加の一点張りだった東浦

 

が、人口減に陥っていくきざしが見受けられたことです。

 

 

 

 平成22年 2010の国勢調査では人口水増し問題で大騒ぎになりました。

 

その時が、49,800人でした。今回(平成27年 2015)が、49,238人で前回

 

より減少しています。(実人数、実際に住んでいる本当の調査人数ですので、

 

この数字が正しいのですが、東浦町の住民課の資料・統計「ひがしうらのす

 

がた」を用いて考察します。)

 

 

 

   減り始めた人口

 

 

 

国勢調査の統計は平成27年度で減少し、また毎年統計を取る町の資料も、

 

今年人口減少が現れました。最初に掲示したグラフは国立の人口問題研究所の

 

予想値です。それによると、人口はは2020年がピークで50,765人を示して、

 

その後減少をします。今年の人口減少が1時的なものか、それとも人口減少

 

傾向が早まったものなのか考えてみます。人口ピラミッドの「ねぎぼうず」

 

型を示すことから考察すると、少子高齢化が進むことは避けられません。よっ

 

て、後者の人口減少が早まったと考えるのが、妥当でしょう。

 

2020年の国勢調査で市制を目指すには最後のチャンスとなるか、それとも

 

5万人を少し切った町のままの人口で推移するかの分かれ道です。町のままで

 

良いという考えも多く出ています。やはり市制が良いという意見も多いです。

 

さて、いかがなのもでしょうか。ふるさと散歩で各地域を色々と回りますが、

 

人口問題にも目を向けてみてはと考えます。今回は考える材料をいろいろと

 

提示いたします。

 

 

 

  地域による増減の差目立つ

 

  激しい減少 緖川新田、森岡地区

 

 増加の地域は石浜と緒川地区のみで、他の地域は減少に転じました。

 

 緒川地区は旧日高農場付近の住宅開発、石浜地区は南ヶ丘と県営住宅の高層

 

化などが挙げられ、人口は順調に増加してきています。一方生路、藤江地区は

 

増加が鈍り、人口が横ばいになりました。特に目立つのが、新田地区の減少で

 

す。ピーク時の平成14年から13年間で852人が減っています。昔なら(江戸

 

時代)なら、村が2つ無くなったくらいに減り、驚く数字です。対策が急がれ、

 

幹線道路の東海市~阿久比町の開通も急がれます。また、森岡地区も平成20

 

年より7年間で159人が減っています。共通しているのは、大規模な住宅団地

 

の高齢化と若い年齢層の流出の問題です。世帯人数の減少と高齢化の問題や、

 

住む人のいなくなった空き家が目立ち始めています。これは石浜の分譲住宅地

 

でも当てはまります。

 

多かれ少なかれ、東浦全体で少子高齢化問題は避けて通れない問題となって

 

います。どうしたら、魅せられる東浦の町づくりができるのか、これから考え

 

て実践していく必要があります。

 

 

 

 

H12

_2000

H17_2005

H22_

2010

H27

_2015

H28

_2016

ピーク時 年 

人口

 

東浦総数

46,393

48,866

50,165

50,306

50,245

H27_ 2015  50,306

 

森岡

7,407

7,489

7,642

7,606

7,574

H20_ 2008   7,733

 

緖川

7,899

8,116

8,508

8,658

8,669

 

 

緖川新田

8,542

8,732

8,393

8,093

7,945

H14_ 2002   8,797

 

石浜

10,855

12,218

12,723

13,063

13,182

 

 

生路

5,076

5,310

5,599

5,660

5,625

H27_ 2015 

5,660

 

藤江

6,614

7,001

7,300

7,226

7,250

H22_ 2010   7,300

 

 

5月28日(土) ふるさと散歩緒川新田

 

 

狼煙台跡と東浦町の上水道水源を訪ねる!!

 

528()、第三回ふるさと散歩「緖川新田」地区が実施され、25名を案内しました。今回の目玉は尾張藩が海防のために作った狼煙台跡・高根山の見学と東浦町の上水道水源の見学です。今まで距離が長くなるので割愛されていましたが、思い切って散歩コースに取り入れ、総距離4.5キロのコースとなりました。尾張藩が海防に心を砕いたこと、私たちが毎日飲んでいる東浦町の水はすべてここ緒川新田の配水池から送られていることを知りました。距離が長いのにもかかわらず、新しい視点を提供する新コースに参加者は喜んでくれました。

 

 

 

 狼煙台から、外に危機感をもつ幕府がわかる

 

 

 

高根山に狼煙台が設置された頃、鎖国の日本が、外に危機をもち、内にも一揆などに悩み、幕府が崩壊へとむかっていきます。理解に役立たせるために、背景をここに掲げます。

 

モリソン号事件に目を向けると、異国船打払令

 

美浜町が生んだ日本最初の国際人・音吉、田原藩家老渡辺

 

崋山の批判と、身近な出来事がつながりおもしろいです。

 

外国船の来航記録                  モリソン号

 

1 「異国船を打ち払え」 異国船打払令

 

18世紀末から、日本沿岸に、ロシアやイギリスなどの船がたびたび現れていました。幕府はこうした動きに危機感をもち、1825年に「異国船を発見した場合、すぐさま攻撃し追い払うように」と、各藩に命じました。

 

 

 

2 打ち払い令実施、 モリソン号事件

 

1837年、江戸湾の入口浦賀沖に、外国船が現れました。浦賀奉行所は、小舟を出して外国船であることを確認すると、警告無しに砲台から攻撃しました。外国船はそのまま湾外に去って行きました。この船がアメリカ船・モリソン

 

号(その時はイギリス船と誤り伝えられた。)で、日本人漂流民7人を送り返すことと合わせて、通商を求めてきたことが、1年後に分かりました。

 

 漂流民・音吉(現美浜町出身)

 

  モリソン号で帰国できなかったが、後に通訳として、 イギリス軍艦で長崎に来る。イギリス海軍の通訳として日英交渉に力をつくした。美浜町が生んだ日本最初の国際人。

 

4 崋山「異国船を攻撃すれば、国を滅ぼす」 

 

 モリソン号事件を知った田原藩家老渡辺崋山は、「異国船を攻撃し続ければ、言いがかりを付けられ、国を滅ぼす」と批判し、蘭学者高野長英は「漂流民を連れてくる船を攻撃すれば、人を憐れむことを知らない国と見なされる。イギリスは多数の軍艦を持っており、何を起こすか分からない」と述べた。

 

 1839年、幕府は崋山と長英のグループを処罰した。1840年、イギリスと清とのアヘン戦争の情報が伝えられた。1842年、幕府は異国船打払令を撤回した

 

 

 

5 知多半島に狼煙台の設置

 

 1850年代、標高83mの高根山に尾張藩の狼煙台が置かれた。知多半島に於ける亀崎狼煙台と大高狼煙台の中継を目的に設置された。師崎で異国船を発見した場合、師崎から順に大井→布土→長尾山→亀崎→緒川→大高と狼煙を揚げ、最終的に熱田→名古屋城二之丸・評定所へ報告することになっていた。
 同時に早飛脚を走らせる為、大井→矢梨→河和→布土→大足→成岩→乙川→藤江→緒川→大府→大高→熱田に早飛脚継場も置かれた。

 

下の写真説明  上段:山神社にて三禅定の碑    狼煙台跡にて

        下段:配水池の場所確認      唐治屋敷の常夜灯

 

5月23日(月) 福祉施設のみなさんを慰問

トランブのマジックを楽しむ!!

 

 東浦町福祉センターを訪ねディサービスのみなさんに、トランプのマジックなどを楽しんでもらいました。12名のお年寄りとスタッフの方も含めて15名のみなさんに喜んでもらえたと思います。

カードを1枚とってもらい、それがどんなカードなのか当てるのですが、種明かしをした時にはみなさん大笑いでした。

 そんなゲームの後に、村木砦の戦いで今川方についた村人が処刑された顛末をお話ししました。当時村役人がいた海印寺が放火されたこと、こんなことではいけないと処刑された人を弔うために祠を立て、供養を続けていることをお話ししました。

「家紋」のお話し

 

 次は家紋のお話しをしました、銅板で作成し額に入れた立派な作品を見てもらいました。

次に代表的ないくつかの家紋を取り出し、誰の家紋であるかを皆さんに聞きながらお話をしました。知っている家紋だとあちこちから声が上がりました、わからない時には解説をします。緒川城主の水野家の家紋についても説明しました。

 最後に少し時間がありましたので、昔の大きな地震のことを話しました。ここでもみなさんから、自分の記憶にある思いでを話してくれました。

 

 

5月19日(木) 刈谷市民と市役所スタッフ37名を案内

 

刈谷との交流の少なさを痛感

 

 刈谷城&緒川城歴史探訪ツアーの刈谷市民一行37名を、乾坤院総門・緒川城主三代の墓・緒川城跡へ案内しました。隣の刈谷市に住んでいても、刈谷城のことを知っていても、刈谷城の出発点は東浦の緖川城から始まったことを初めて知ったと言う人が多かったようです。

 

東浦のイオンは来ても、乾坤院や緖川城址には来たことがない人もいました。同じ通勤定住圏の中で、刈谷へのアピールを進める必要があり、東浦と刈谷との歴史的な関係を、もっと知ってもらいたいものです。

 このツアーを終了して、「興味をもったので、深く知りたいから、もう一度来たい。」と言う人も出てきました。一時間半の行程でしたが、満足してもらい良かったと思います。

 

 考えたこと

 

於大は、刈谷で生まれた」?

  刈谷の一部の物知りはこんなことを言います........今日の参加者の一人の意見でした。於大が自ら定めた菩提寺は、東浦の善導寺です。善導寺に於いて、於大の50回忌、100回忌~350回忌の供養が、幕府、藩の使者を招いて丁重に実施されました。於大は緖川を故郷と思い、多くの御物を善導寺に寄進しています。江戸時代、幕府も藩も公認のことです。こんなことをしっかりと伝えて、於大の東浦生誕を正しく理解してもらうことが大切なことと思いました。

 

実は...刈谷のルーツは東浦にあった!! 

 

5月14日(土)  ふるさと散歩森岡

 

村木砦跡等を探索しよう

 

 

参加者78名、ガイド21名・鎧の会10名

 

100名を越す大イベント

 

  514() ふるさと散歩森岡「村木砦跡等を探索しよう」が晴天のもとで実施されました。参加者は大人67名子ど11名、合計78名の盛況ぶりで、単独のふるさと散歩としては最高の記録となりました。また、われわれガイドも21人参加し、「鎧(よろい)の会」にも応援参加をしていただきましたので優に参加者が100名を越す一大イベントとなりました。

  しかも、大規模な会にありがちな混乱はなく、整然と実施されました。参加者も充実感を味わって満足げでした。大成功の内に終了しました。

  

八剣神社での村木砦の戦いの説明

             今川方の城・砦が広がっていくのを図示し、信長・水野の力がいかに弱小 

だったか。その中で信長・水野軍の勝利の意味するものなど説明しました。

信長が鉄砲を実戦で使用、陣頭指揮を執る信長と労をねぎらい涙を流す信長

の姿を生き生きと説明しました。

処刑場跡では戦いでなくなった者の供養の説明

             今川方に協力したものと織田・水野方に協力した者に村を二分し、その片

方が処刑される悲劇。それを乗り越えて、村の融和のために営々と営まれて

きた村木観音会の話は涙無しには聞かれません。

鎧兜で着飾った武将は4人

             いつも以上に多くの武将が登場し、ホラ貝まで吹き鳴らし「手づくり

鎧の会」のみなさんが参加者を歓迎してくださいました。

             火縄銃の模型での説明と、実際に火縄銃に触れて参加者は興奮気味で

した。実資料の重みがあります充実感を味わい満足した参加者

        各グループ中心となるガイド、サブのガイド と説明の分担をして、分

    かりやすい説明に努めました。前半の所では、三禅定の石碑の多さに驚き

    日本最大級の遺跡が森岡にあるのに、なぜもっと宣伝をしないのかという声

    が多く聞かれました。

 

大切なことはリピーターを大切にしたい。東浦のふるさと散歩は

行けば、何か新しい発見がある。」「行けば、何か新しい楽し

 みがある。」こんな散歩にしていきたいものと考えています。 

 

写真説明

 上段.....八剣神社 で鎧の会の鉄砲の説明   村木神社の三山信仰の碑

 下段.....信長が戦勝祝いをした飯食場跡    処刑場跡にて

4月16日(土)  於大まつりで書籍販売とガイド

 ふるさとガイド協会は於大まつりに出展をして、ガイド協会作成の「東浦の歴史と文化」「東浦百景」をはじめ、教育委員会発行の東浦に関する書籍の販売を行いました。それと、乾坤院総門と水野家三代の墓においてガイドを行いました。本堂や堅雄堂、四代の墓の案内ができなくなりとても残念です。

それでも水野家三代の墓では小川重房に始まり、1360年正房が美濃の土岐氏に敗れたこと、その後貞守が緒川城・乾坤院を建てたこと、後には忠政の活躍・於大の刈谷への移住や松平へのお嫁入りなどを説明しました。それと、今年も長野の小川村からこられたみなさんを総門・三代の墓と案内しました。

 

東浦歴史散歩に目を通す大村知事        テント前を行進する武者行列

4月13日(水)  ふるさと散歩「水野家史跡と満開の八重桜」

 新年度最初のふるさと散歩は、緒川南地区の八重桜の咲き誇る「於大の道」を歩き、乾坤院・三代の墓・緒川城跡など

水野家ゆかりの地を案内しました。

お天気が心配されましたが、幸い雨には降られず43名の方が参加してくれました。春の東浦を代表するイベントにもなった「ふるさと散歩緒川南」に、メディアスさんが取材に駆けつけてくれました。左の写真は八重桜の説明シーンを

撮影しています。

 

知多メディアスの放送は①14日(木)17:00~②16日(土)10:00~の予定です

 

 4グループに分かれて案内しましたが、いずれのグループにおいても消失してしまった乾坤院の本堂・座禅堂・堅雄堂を見てみなさん落胆を隠せませんでした。しかし、三代の墓緒川城跡・地蔵院など見学し、水野家の緒川藩10.000石の城下町であった歴史に思いをはせながら無事に終了することができました。

 

4月8日(金)  八重桜の名札メンテに協力

 9時30分から「このはな館」のお手伝いで、明徳寺川沿いの八重桜の名札をメンテしました。

昨年も行いましたがこの時期に行うのは、早咲きの桜はすでに満開になっているものもあり、①種類の確認②名札の欠落を中心に行いました。このはな館の担当者が替わったこともあり、ガイドは5人が参加してお昼ころまでかけて両岸の桜をチェックしました。

 何事も一度やったらOKかというとそうはいかないもので、回を重ねることで情報も増えてより正しい判定ができます。今回の収穫は①イチヨウと白妙の間違い、②カンザンとキクザクラの間違いを見つけました。たくさんの桜を見ていくと、そのうちに感覚がマヒしてくるようでこんがらがって来ます。でも、花図鑑やスマホで呼び出して花の特徴を読み上げながら確認ができるようになりました。文明の利器も活用できることで、判定能力もアップしたと思います。

花図鑑とスマホを使い花の種類を判定        判定に悩んだ「ベニユタカ」?

 

4月5日(火)  28年度総会で事業計画など決める

   新年度を迎え、東浦ふるさとガイド協会の総会が行われました。

 町を代表して恒川教育長はじめ関係する部署の部長・課長を来賓に迎えて、はじめに山本会長のあいさつでスタート。来賓の恒川教育長からは、ガイド協会の活動が着実に展開されてその幅を広げていることに謝意が述べられました。

*議事に入り昨年の主な活動報告では

①ふるさと散歩参加者       349名(8回)

②ふるさとガイド参加者      80名(4回 )

③小中学校の学習支援         151名(4回)

④福祉施設でのお話し      133名(4回)

⑤郷土の行事に参加・案内    2600名(於大まつり・桜ガイド・産業まつり)

⑥地域コミニュティーと提携活動 130名(石浜地区)

他にはNHKラジオ旅ラジに出演、他のボランティアとの交流やガイド自身の研修会を重ねてきました。

*事業計画と予算をきめて終了しました

 

左 山本会長                    右 恒川教育長

 

3月26日(土)  ふるさと散歩「弘法道を歩く」

    49名が参加して10番札所観音寺~11番札所安徳寺を巡る

 昨年の続きで石浜のこども墓地から10番札所の観音寺へ。ここは昔村が建てたお寺さんで檀家はありません。今は常照寺さんが管理しています。はからずも住職がおいでになりお話しを聞くことができました。そこからは生路の郷中を通る「弘法道」を歩きました。丁石を確認しながら、また道沿いに門柱だけが残る生路の学校跡や、日本で初めて「白砂糖」を作り、将軍家に献上した原田喜左衛門のお墓のある神後院や、長生きの神様「多賀社」もお参りしました。江戸時代中ごろに90歳以上の長生きが5人もいた記録が残っています。そして、生路のコミセン前には弘法宿「ちかすえ」が営業していました。 

10丁目石~8丁目石に進むと右手高台に、昔の丸彦紡績さんの別荘が見えます。当時の別荘という言葉は耳新しいものでした。そして、8丁目石付近の高台から見た昭和29年頃の写真が残っており、煙突とノコギリ屋根の工場ばかりがびっしり並んでいました。

 5丁目石から藤江に入ります、そのすぐ先の4丁目石の隣に立派な二階建ての家があります。弘法宿「丸登屋」さんで今も営業しています。ちょうど奥さんが外にいて中を見学させてもらうことができました。入口には大家石の門柱の上に「丸登屋」の案内灯があります。昔風の四八の総二階建てで、前には4尺の縁側があり裏にも廊下がある作りといいます。東浦唯一の和風旅館として永く活躍してほしいものです。

 このあと安楽寺まで行き、それぞれお参りをして今回のふるさと散歩を終えました。無事に案内できたこと、丸登屋さんの見学ができたこと、それに49人もの方が参加してくれたことなどうれしい限りです。

 

3月2日(水)  村木砦の観音会

 

村木砦観音の法要がしめやかに行われました

 

 

 

 村木砦の戦いで今川方に味方して処刑された村人や、村木砦の戦いでなくなった犠牲者の供養が、村木砦の戦いのあった旧暦124日新暦で3月始め頃、毎年実施されています。今年も32()処刑場跡に近い森岡の村木水野氏20代目 宅で法要が営まれました。東浦ふるさとガイドも法要に参加して、村木砦の戦いに思いを巡らせました。

砦を築くために今川方は村人を多く動員しましたが、戦は村人を2分することになりました。今川方に味方した村人は勝った信長の命で多く処刑されました。この犠牲者の供養が毎年行われているのです。村人にとって今川方か信長・水野方かどちらが勝利しても、村を維持して行かねばなりません。犠牲者の供養は生き残った者には当然だったに違いありません。戦いのあった1554年(天文23年)から460年たっても、法要が続くことに村人の信仰心の深さを思うとともに、村全体をも巻き込む壮絶な戦いであったことを改めて考えます。また、村木砦の戦いを現在に伝える大切な行事を、これからも守っていきたいと考えます。(信長公記の史料に匹敵するようなこと)

 

2月25日(木)  乾坤院と了願寺を案内

 225() 碧南市無我苑のボランティアガイド6人の方を、10時30分~12時30分にかけて於大さんゆかりの乾坤院と、碧南出身の永井氏ゆかりの了願寺へ案内しました。乾坤院では総門・山門・堅雄堂・4代の墓を案内、そのあと永井氏の墓がある了願寺へ移動しました。了願寺には碧南出身の永井直勝の長子・正直を始祖とする永井家の墓があります。

 <参加されたみなさんの声です>

・碧南出身の永井直勝の長子・正直を始祖とする永井家の墓を見ることが

  できて感激しました。地元に関係のあるだけに興味深く見学しました。

・乾坤院は初めてで、碧南の近隣に乾坤院の大寺院があることに驚きまし

   た。於大さんのことがよく分かりうれしいです。

そして、当方の最年長ガイドが米寿を過ぎていることにびっくり。説明用のパネルやはつらつとした姿に感心されていました。

 

1月17日(日)  文化財消防訓練に参加

 午前10時伊久智神社にて文化財消防訓練が行われました。昭和24年に法隆寺金堂の壁画が消失したことを機に、昭和30年より「文化財防火デー」として行われています。参加したのは私たちふるさとガイド、地区防災会、氏子総代、神楽の面々。内容はいつもと変わりませんが、消火器と消火栓の取り扱い訓練が行われました。

 神谷町長は訓練のあと「人は頭で分かっていても、行動に移すことは容易ではありません。繰り返して訓練することこそ大切なことです」とあいさつされました。この後、特別に「神楽」の演奏が行われました。

1月13日(水)  史跡巡りの皆さんを案内

 ポカポカ陽気に恵まれた13日午前10時、シニアカレッジ東海教室のみなさん22名を案内しました。

まずは乾坤院・於大公園・三代の墓を回り、水野氏について案内。時間の都合で緒川城跡はパネルで説明し、そのあと車で移動して善導寺では於大の方も含めて説明しました。その次には隣のキリシタン灯篭のある越境寺を案内しました。みなさんには、於大と水野氏をはじめとする東浦の史跡に理解を深めていただくことができたと思います。

 

1月9日(土)  安城ふるさとガイドの皆さんを案内

 今回は昨年お世話になった「安城ふるさとガイドの会」17名の皆さんを案内しました。

まずは郷土資料館でお迎えして、入海貝塚・塩などの展示を案内しました。それから乾坤院へ移動、お寺の歴史や曹洞宗中本山としての特徴などを説明。隣の堅雄堂と水野家四代の墓を案内し、水野家の歴史を説明しました。このあと水野家三代の墓を巡り緒川城跡まで足を運び、水野家の歴史を偲んでもらいました。時間の都合で善導寺については、歴史や現在の住職の先進的な活動を紹介して説明としました。